Jun 18, 2011
会員制リゾートで憧れの別荘を入れる
休暇を過ごす別荘でゆっくりと時間を過ごすことは誰にも憧れています。しかし、別荘を購入しただけではなく、たまにしか行けないの別荘を維持していくのは大変です。その会員制リゾートを利用すると会費だけでリゾート契約しているさまざまな場所に行くことができ、管理を要求し、メンテナンスにお金ができません。会員制リゾートは、とても経済的です。旅行に行くのは気分がリフレッシュすることが良いでしょう。海外に行く場合は、"海外旅行保険"に加入しておくと便利です。外国は日本の気候とは異なる場合が多いですから体調を崩してしまうこともあります。日本の医療保険を使用することはできません。海外旅行保険にも対応できる部分もあります。不測の事態に備えて、加入しておくと安心です。
【語り継ぐ淀川】 阪急十三駅の東側。住宅密集地の小さな一軒家に編集部を構える。
地元タウン誌「ザ・淀川」が今年5月で創刊30年を迎えた。淀川の右岸、大阪市淀川区全域の約9万世帯をカバーする月刊のフリーペーパーだ。
カラー刷りの40ページに、地域情報が満載。旅案内、俳句・川柳のほか、エネルギー問題などのトピックス、海外リポート、行政通信、若者の主張…など骨っぽい内容も並ぶ。ありがちな“広告べったり”とは一線を画し、平成元年のタウン誌全国フェスティバルでは奨励賞を受賞している。
編集長の乃美(のうみ)夏絵さんは淀川左岸の北区在住で、入社7年目。編集長とはいえ、女性ばかり5人の所帯だけに取材・編集・広告など休日返上で何でもこなす。
「淀川近辺は人にパワーがあって、記事に困ることはないという感じですね。河川敷、繁華街、民家、工場、物づくり…とにかく街がカラフルなんですよ。それに区民にとって、河川敷に座ってしゃべったり、たたずんだりするのは人生ですごく大事な時間なんです」
◇
乃美さんは海外でルポライターとして仕事をすることを夢見ていた。ところがある時、自宅に配られた「ザ・淀川」の姉妹誌に衝撃を受けた。「いつも見ていた八百屋のおっちゃん、こんなオモロイ経歴やったんや」。外国でなくても、地域に魅力的な場所や人物はたくさんある。すぐに編集部に電話を入れた。
この時、「遊びにおいでよ」と声をかけてくれたのが、初代編集長の南野佳代子さん。大阪市民表彰など数々の賞を受賞する名物編集者だ。
「お母さんみたいな人でしたね。興味を持っている人や場所を自由に取材させてくれました。原稿は跡形なく直されてばっかりでしたが、『この子、この仕事が好きなんやろなあ』とでも思ってくれはったんでしょうね。本当にかわいがってくれました」
取材・編集活動が軌道に乗り始めたころ、南野さんから「創刊30年を機に、私は顧問になるから、よかったら編集長やってくれへんかなあ」と言われた。この時は「そうなるよう、一生懸命勉強します」とだけ答えた。
だが、その時期は思いのほか早く訪れた。平成21年9月15日、南野さんは64歳で逝去。10年来、がんとの闘病が続いていたのだ。
◇
乃美さんらに休刊する気はなかった。編集長に就くと、翌年、南野さんの事務所から現在の場所に移転。再スタートを切った。
「近所の飲食店主さんとかも『ここでやめたら、佳代子が泣くぞ』と応援してくれました。まだまだ地域情報誌というのは大事なんやと思いました」
経営が苦しく1度だけ休刊したが、それ以外は減ページで乗り切った。現在も決して楽ではないが、周囲のバックアップで発行を続けている。
「まだ、南野さんのイメージが強いですが、最近ようやく『編集長』と声をかけていただけるようになりました。地域が主役。南野さんの思いを継いで、気楽な中にも、おっと思えるような記事を織り込みたいですね」(豊田昌継)
◇
【ザ・淀川】…昭和56年5月創刊。大阪市淀川区の全世帯、商店などに個別配布している月刊のフリーペーパー(毎月25日発行)。平成元年、第5回NTT全国タウン誌フェスティバル「タウン誌大賞奨励賞」を受賞。発行部数9万部。カラーB5判変形40ページ。
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この建物に入るといつも、おのずから粛然とする。広島平和記念資料館を訪ねるのは被爆から50年を迎えた平成7(1995)年8月以来、16年ぶりである。
展示方法は変わったようだが、原爆の悲惨を伝える品々は同じものが並んでいる。原爆が投下された8時15分で止まった腕時計や、中身が黒こげになったアルミの弁当箱、人影が映し出されたビルの壁などは、よく知られた歴史の物証だ。
16年前といえば、阪神大震災が起きた年である。今年は東日本大震災が襲った。被災地の惨状を見て「あの日の広島を思い出した」という声を聞いた。
だが、決定的に異なるのは、原爆は人為的な惨禍であり、爆風と熱線が襲い、おびただしい放射線が生き残った人々を苦しめたことだ。アメのようにねじ曲がった鉄骨や、溶けてくっつきあったガラスの瓶などは、ほかではありえない。そして、被爆直後の人々の姿は直視できないほどむごたらしい。
今年の平和記念式典は、原爆よりも原発に注目が集まった。海外からの取材メディアが昨年より3カ国多い13カ国を数えたのも、東日本大震災による東電福島第1原発の事故があったためだろう。
菅直人首相は式典のあいさつで、「原発に依存しない社会を目指す」と語ったが、参列した歴代首相が原発に触れたのは初めてだ。
松井一実広島市長も平和宣言で「核と人類は共存できない、との思いから脱原発を主張する人々がいる」として、国にエネルギー政策の見直しを求めた。
だが、原爆と原発は違う。加えて言えば、できてしまったものは、できなかった昔に戻れない。
人類は科学の進歩によって核エネルギーを手にした。ひとつは、地球をも滅ぼしかねない兵器として。もうひとつは、制御しながら発電に利用するエネルギー源としてだ。
日本は唯一の被爆国として、世界に核兵器廃絶を訴え続けてきたが、いまだ実現しない。かねて超大国の核のバランスが戦争の抑止力として働いたのは否定できない事実である。さらに、新たに核の開発に手を染める国がある。核兵器を消し去ることは難しい。封じ込めるしかないのだ。
原発は、福島の事故で不安が広がったが、わが国にとって大切なエネルギー源であり、その技術は貴重な資産である。再生可能な自然エネルギーに代替できるまで、安全性を高めながら活用するのがベターだ。そのために英知を結集する必要がある。
「脱原発」は冷静に、時間をかけて議論しなければならない課題である。広島からメッセージを発するのは早い。まして菅首相が政権維持のために政治利用してはいけない。
まだ明けやらぬ平和記念公園で、車いすで供養塔に手を合わせる女性がいた。被爆者の平均年齢は77歳を超えた。66年がたつが、「あの日」はなお忘れがたい記憶である。
8月6日は、こうした人たちの慰霊の日であるべきだ。(論説委員・鹿間孝一 )
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